港区では平成20年度より、『お口の健診』という新しいタイプの成人歯科健診を20歳以上の区民すべてが受けられるようになっています。受診したことある方はご存知だと思いますが、この歯科健診は年に2回受けられます。
今回は『お口の健診』の特徴を説明しながら、この新しい歯科健診が従来の歯科健診とは違った意義を持つことについての話をしたいと思います。港区以外にお住いの方にも、参考になると思いますのでお付き合いください。
ナッジという言葉を聞いたことがあるでしょうか?
「ナッジ(nudge=肘で軽く突く、背中を押す)」
2017年のノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のリチャード・セイラ―教授と共同研究
者であるキャス・サンスティーン教授が提唱したものです。セイラ―教授は行動経済学という分野を確立された経済学者です。
彼らの著書では
ナッジは『注意や合図のために人の横腹を特に肘でやさしく押したり、軽く突いたりすること』と書かれています。ナッジする人は『他人に注意を喚起させたり、気づかせたり、控えめに警告したりする人』ということです。
ナッジは二人の共著実践 行動経済学で展開された考え方であり、ナッジという方法をうまく使うことで、人々の健康や財産、幸福に関するより良い意思決定するように導いていこうとするものです。
また、以下のような定義もあります。
「選択する人が、自分にとってより良い結果になるであろう決定を、選択者自身の判断に基づいてするように、選択に影響を与える。」
ナッジの例として
企業や学校のカフェテリアにおいて、野菜などの健康に良い食品を多く摂ってもらう対策があります。「野菜を多く食べましょう!」「甘いものを控えましょう!」とアナウンスするのではなく、食品の配列方法を工夫し、健康に良い食品を多く摂るように誘導するというものです。
ナッジにはいくつかのポイントがあります。
・本人が自発的に自分の利益につながる選択をする仕組みや仕掛けである
・選択の自由がある
・命令ではなく、禁止もしない
・金銭的な動機づけをあまり取り入れない
自分が選択した行動と結果が出るまでの間に大きな時間差がある場合、特に老後に対する備えや健康に関する選択などに有効だとされています。
2017年11月20日に発刊された
健康格差 あなたの寿命は社会が決める (講談社現代新書)は、2016年9月に放送されたNHKスペシャル「私たちのこれから #健康格差~あなたに忍び寄る危機~」の内容を中心にして加筆されたものです。
私たちの中で、健康に格差が生まれるのは自己管理能力の高低ではなく、所得、住む場所、雇用形態や家族構成などが要因となっていることがクローズアップされています。そして、格差解消の鍵のひとつとしてナッジを応用した健康対策の例が紹介されていました。
私はナッジについて知ってから、『お口の健診』も実はナッジではないかと考えるようになりました。
港区『お口の健診』は区内の登録歯科医療機関で受診することが出来ます。
登録医療機関になるには、必ず年1回の説明会を受講する必要があります。
毎年の説明会で必ず説明を受けることがあります。
『お口の健診』は
「疾病早期発見型・お説教型」の健診ではなく
「自己管理のための機会提供型・受診者支援型 」の健診であるということです。
私を含め多くの歯科医師は学生時代より、むし歯は一度穴があいてしまうと治らないことから、早期発見・早期治療を第一に念頭に置いていました。健診の時だけではなく、普段の診療においてもそうです。従来の歯科医師としての性で病気の発見に集中してしまいがちです。
ただ、早期発見して治療をしたとしても、むし歯になりやすい人はいずれまたむし歯になります。
そうすると、早期発見・早期治療だけで良いのかということになります。仮にむし歯や歯周病がなかったとしても、むし歯や歯周病のリスクが高そうな人もいずれは同じ運命をたどることになると思います。
そこで、「自己管理のための機会提供型・受診者支援型 」の健診となる訳です。
全ての方々にとって最も重要なのは
そもそも病気にならないことです。
次に重要なことは
病気になっても、早めに治療を済ませ、その後の再発や重症化を防いでいくことです。
『お口の健診』では
まず、私たち歯科医師がお口の中の状態を受診者に伝えます。また、リスクがあればそのことも伝えます。
ここで大切なことは受診者自身に気づいていただくことです。
『お口の健診』には気づかせる様々な工夫があります。
・リスクを発見できる唾液検査とガム検査
・問診表によるリスクの可視化
・パーセンタイル図による今後の予想
・お口の健康度点数による現状の把握
そして、これらを確認していただいたうえで、最後にご自身で「今後のお口の健康のための目標」を立てていただきます。
決して強制されたり、禁止されたりすることはなく、あくまでのご自分の意志でどうするかを決めていただくのです。
改善すべき点が多くあっても、今は改善しないという選択もOKです。
『お口の健診』は最初に受診するときは「本健診」と呼び、歯科治療中の方は受診できません。2回目以降はすべて「フォロー健診」と呼び、歯科治療中やメインテナンス中でも受診できます。
大切なことは、受診者の方に問題点に気づいていただき、必要があれば日々の生活習慣を見直していただくことです。
一言で生活習慣を見直すといっても、簡単にはいかない場合が多いと思います。やはり、繰り返しアプローチをしていくことにより、将来的に本人の利益につながる行動を起こす可能性が高くなります。
生活習慣の見直しを効果的に行っていただくために、私たちがフォローしていけるように年2回の健診受診が可能になっているのです。
生活習慣を改善するなど、人々が行動面で変化していくことを行動変容と言います。行動変容は仮に良い方向に向かうとしても、一直線で良い方向に向かうことはありません。上の螺旋のイラストのように、徐々にあるいは見方によっては一旦下がったりしながら、少しずつ上昇していくものです。
中にはほとんど上昇しない方もいるかもしれませんが、少しでも好ましい方向に進んでいただくには、年1回よりは年2回の健診によるアプローチの方が役に立つのは間違いありません。
本来であれば意識を変えようが、変えなかろうが自然と健康になる仕組み(冒頭のカフェテリアの例)を作ることが理想的なナッジです。
ただ、『お口の健診』の強制することなく、自分の意志に任せるという点がまさにナッジの一つの重要な要素を満たします。
毎回、受診することが苦痛でなく楽しみなり、定期的に受診することがルーティーンになればより理想的なナッジに近づくといえます。
私は港区『お口の健診』はとてもナッジな健診ではないかと思っています。